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理事長だより

2025.09 UPDATE

【理事長だより】「Vol.79 君ならどうする?―ジョン万次郎の選択」

数奇な人生を歩んだ少年

今年の夏、私は高知県を訪れる機会がありました。高知県といえば、空港の名前にもなっている坂本龍馬が有名ですが、同じ土佐の出身であるジョン万次郎も高名な歴史上の人物です。教科書には「漂流しアメリカへ渡り、通訳として活躍」と一言触れられるだけ。しかし、その生涯は、現代の私たちにも響く「学び」と「勇気」が満ちています。

「一緒にアメリカへ行かないか?」

時は幕末。14歳の漁師の少年・万次郎は、初めて漁に出たその日に嵐で遭難し、無人島に漂着しました。143日間にわたり仲間とともに生き抜いた末、アメリカの捕鯨船に救助されます。その時、彼は初めて出会った外国人から「アメリカへ行かないか」と誘われ、人生を懸けてその一歩を踏み出しました。もし、みなさんが万次郎の立場だったら、どう決断するでしょうか。

単身アメリカへ

当時の鎖国下では、外国船に乗った者は処罰される掟がありました。仲間はハワイで下船しましたが、万次郎は恐れず単身アメリカへ。養父に迎えられ、教育を受ける機会を得ます。やがて名門バートレット・アカデミーを首席で卒業。航海術や科学だけでなく、自ら考え、議論し、論理的に伝える力を徹底的に鍛えられました。

世界を知り、祖国に戻る

捕鯨船員として世界を巡るうちに、万次郎は「鎖国を続ければ日本は取り残される」と危機感を募らせます。資金を得るためにゴールドラッシュの地で働き、10年ぶりに帰国。しかし外国渡航者として捕らえられ、土佐に戻るまでさらに2年を要しました。それでも彼の知識と経験は坂本龍馬や岩崎弥太郎ら多くの志士たちに大きな刺激を与えました。

黒船来航の衝撃

ペリー艦隊が来航したとき、幕府はアメリカ事情に通じた万次郎を直参に召し抱えます。彼は「アメリカは日本を侵略するのではなく、航海の補給港を求めている」と説明し、開国の道筋を開きました。問題の核心をとらえ、恐れず明快に説明できたのは、異国で培った論理力と表現力のおかげでした。

その後も万次郎は、日米修好通商条約における使節団に同行し通訳として力を発揮。明治維新後は小笠原諸島の開拓や東京大学の前身・開成学校の教授など多方面で活躍し、71歳の生涯を全うしました。まさに「時代が求めた人材」であったといえるでしょう。

万次郎の人生をたどると、まるで日本の歴史を動かすために神に選ばれた運命のようにも思えます。もし彼がホイットフィールド船長に出会わなければ、ペリー来航の時に日本にいなければ、歴史の流れは違っていたかもしれません。

今を生きる君たちへ

ジョン万次郎の物語は、時代を超えて「情報・学び・勇気」の三つの力の大切さを教えてくれます。どんな時代にも必要なのは、主体的に情報をつかみ、自ら何度も考え、勇気をもって一歩を踏み出す力です。

みなさんもぜひ、この力を自らのものとし、未来を切り拓いてください。

【追記】

「ジョン」の名は救助された捕鯨船ジョン・ハウランド号に由来します。帰国後、14歳で別れた母と再会し、大恩人ホイットフィールド船長とも20年ぶりに再会しました。そして今も、万次郎の子孫とホイットフィールド船長の子孫は交流を続けています。

― 参考資料 -

1) 公益財団法人ジョン万次郎ホイットフィールド記念国際草の根交流センター『CIE概要資料』、2023年版

2) 公益財団法人ジョン万次郎ホイットフィールド記念国際草の根交流センター『草の根通信』第121号、2022

3) 日米新聞 NichiBei Times, “Manjiro Festival Closes with Symbolic Globe Exchange,” 2010年10月23日付

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