今年の2月、明治大学中野キャンパスで開催された総合探究活動の「クエストカップ2024 全国大会」に履正社高等学校から3チームが出場し、1年4組 (当時)の「はなえちゃんClub」が、ロールモデル部門で最高位のグランプリを受賞しました。Webページで大会の様子を見ましたが、グランプリの名にふさわしい見事なチームワークと発表内容でした。このロールモデル部門は著名人の人生(はなえちゃんClubは森 英恵さん)を探究し「人間が大切にしていること」を掘り下げることを「学び」の目的としています。多面的に深く分析がなされ、大変よく頑張りました。
今回グランプリを受賞したチームのように、古今東西、いろいろな人物の生き方を知ることは刺激となり、学ぶことが多くあります。私も最近興味をもった人物がいます。その人は「日本人に本物の西洋絵画を見せたい」と私財をつぎ込んだ松方幸次郎。大正時代、まだ日本にはなかった西洋美術館を建てようとした大実業家です。
昨年の秋、私は東京上野にある国立西洋美術館を訪れる機会がありました。前庭にはロダンの「考える人」「地獄の門」など有名なブロンズ像があるではないですか。「こんな近くで誰もが知る作品を日本で見られるんだ!」と感心しました。館内の常設展ではモネ、ルノワール、ゴーギャン、ゴッホ、ドガなどの近代絵画をはじめ、中世イタリア絵画、ブリューゲル、アングル、ラファエル前派など教科書に載っている画家の、本物の作品がずらりと並んでいます。
この作品群の核となるのが「松方コレクション」です。なぜ、日本にこれらの作品があるのか、松方幸次郎とはいかなる人物なのでしょうか。
松方幸次郎(1866-1950)は江戸時代の終わり鹿児島市に生まれ、父親は第4代総理大臣を務めた松方正義です。アメリカのエール大学で法律学博士号を取得し、ヨーロッパに遊学するなど明治時代の日本人としてまだ少ない西洋文明や文化に触れた人物で、30歳の若さで川崎造船所(現在の川崎重工業)の初代社長に就任するほか、数十の会社の社長や役員を歴任し、明治45年(1912年)には衆議院議員に当選し代議士も務めた神戸の政財界の巨頭です。
第一次世界大戦により船舶の需要が世界的に高まったとき、川崎造船所は船を大量生産して莫大な利益を得ました。松方幸次郎は豊富な資金で西洋絵画や美術品を猛烈に買いました。その数なんと1万点以上、買い方は「ここにある絵全部買う」といった豪快なもので、今でいう爆買いです。「睡蓮」で有名なモネの絵は実際にフランス・ジヴェルニーにある本人のアトリエを訪れて購入しました。「本物の洋画を日本の画学生に見せてやりたい」とモネに懇願。同行した美術評論家の矢代幸雄氏の著書によると、モネは「自分の家にある画はもともと売りたくないのだけれども、お前がそんなに言うなら、譲ろう」と大作18点を売ったと記されています。また、「日本の遺産を取り戻そう」と第一次世界大戦中の1918年、パリの宝石商の浮世絵コレクション8213点を一括購入もしています。軍の依頼を受けて、芸術品を買い漁る富豪の傍ら、ドイツ軍のUボート(潜水艦)の設計図を隠密裏に入手するというスパイ活動もしたというからまるで映画の主人公のようです。
松方幸次郎本人は、金持ちの道楽で絵を買っていたのではありません。大正時代、1910年代半ばころ、日本には本物の西洋絵画を誰もが見られる状況ではありませんでした。「元来私は、美術はわからない。だからこんなに沢山買い込んで来ても自分ひとりの所有として庫に納めるようなことはせずに一般日本国民のものとしたいのです。」(大阪毎日新聞1922年)と語っています。美術館は「共楽美術館」と名前も考えられ、東京・麻布の仙台坂に具体的な構想が進められていました。
しかし、関東大震災により美術館の建設が頓挫。さらに昭和2年(1927年)の金融恐慌により川崎造船所の経営が破綻し、松方幸次郎は責任をとって1928年に社長を辞任、コレクションも売り立てられ散逸してしまったのです。
購入した作品群はその後どうなったのか。日本にあった洋画約500点は売却されています。あの時、松方が購入していなければパリの戦火で焼失していたかもしれません。結果的に松方によって大切な芸術遺産が守られたともいえるでしょう。
それ以外の洋画の多くは国策の影響でイギリスとフランスに留め置かれていました。残念なことにロンドンの倉庫にあった作品は火災にあい焼失してしまいました。現在ではその内容や数さえも確かではありません。
一方、パリにあった約400点の作品は松方に保管を任されていた日置釭三郎氏が第二次世界大戦の中、ナチスに占領されていたパリから密かにフランスの寒村に疎開させ戦火を逃れました。しかし戦争が終わると「敵国人財産」としてフランス政府に没収されたのです。1951年サンフランシスコ講和会議を経て、日本国政府はフランス政府に松方コレクションの返還を求めました。交渉の結果、フランスに留め置く必要があるとして、ゴッホの「アルルの寝室」(現在はオルセー美術館に収蔵)など約20点以外は、フランスを代表する建築家ル・コルビュジェが設計する西洋美術館を日本に建てることを条件に返還したのです。(ただし、フランス側は返還ではなく、あくまでも寄贈だと主張したので寄贈返還という言葉が使われたそうです)。
そして1959年、国立西洋美術館は開館しました。しかし、松方本人は完成した国立西洋美術館も、収集した洋画を見ることもなく、1950年に没したのです。享年84歳でした。欧米を見てきた松方は本物を知ることの価値をきっと熟知していたのでしょう。欧米の人々と渡り合ったからこそ、当時の日本に足りないものを提供したい、日本を産業や経済だけではなく文化も欧米に近づけたいと思ったのではないでしょうか。日本で売りさばかれた西洋絵画の多くは、現在日本各地の美術館で見られるそうです。一人の日本人が撒いた種はいろんな形で広がりました。現在、国立西洋美術館の常設展は学生250円で鑑賞できます。東京に行く機会があればぜひ足を運んでほしいものです。
参考資料
「藝術のパトロン」矢代幸雄著・中公文庫刊
「火輪の海」神戸新聞社編・神戸新聞総合出版センター刊
「松方コレクションのすべて」栗原紀行編集・プラネットライツ 国立西洋美術館HP 国立西洋美術館 (nmwa.go.jp)