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理事長だより

2022.12 UPDATE

「Vol.46 ちょっと調べるは、ちょっとした愉しみ Ⅴ」

 本学園創立100周年にあたり、100年前の大阪に関連する事をシリーズで書いて来ました。今回は、凄惨な状況下で親を亡くした765名のポーランド孤児が、日本で平穏なひと時を過ごした100年前の出来事について、ちょっと調べてみました。                     

 今年2月、ロシアがウクライナに侵攻し、女性や高齢者、子供たちが世界各地に避難。日本にも戦火から逃れ2123人(11月23日現在)の人々が来て過ごしています。奇しくも100年前、親を亡くしたポーランドの孤児たちが、同じようにロシア(当時はソビエト)のシベリアから日本に来ていたのです。なぜロシアからポーランドの子供たちが日本に来たのか。

  ポーランドという国は大国にはさまれ各国の侵略により18世紀に国家が消滅。その後独立のため立ち上がった多くのポーランド人がいましたが、残念ながら抵抗はことごとく失敗し、その家族たち関係者がロシアのシベリアに流刑にされたのです。その数は5万人と推定されています。さらに第一世界大戦でドイツとロシアが戦い、ポーランドが戦場となりました。その影響で大量のポーランド人が避難民となりシベリアに行かざるを得なくなります。その数15万~20万人。追い打ちをかけるように第一次世界大戦からロシア革命、ロシア内戦と過酷な情勢が続きます。極寒の地シベリアで避難民となった人々を飢えと寒さ、腸チフスなどの伝染病が襲い、多くの人が亡くなり孤児も沢山いました。

 この惨状を目の当たりにした、ウラジオストックにいたポーランド人がせめて孤児だけでも救いたい、第一次大戦後独立したポーランドに行かせたいと「ポーランド救済委員会」を設立しました。しかしロシア極東のシベリアからヨーロッパのポーランドまで途方もない距離をしかも内戦が起きているルートを横断するには危険極まりない状況でした。 

 ロシア革命による共産主義の拡大を警戒したアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本がチェコ軍捕虜の救出を名目にシベリアに出兵していました。同救済委員会はこれらの国々に緊急援助を要請。しかし政治的な理由でどの国にも断られ、最終的に日本が受け入れることになりました。日本政府はわずか17日で救済事業を決定。しかしシベリア出兵で莫大な費用を費やして財政に余裕が無かったので、日本政府外務省は日本赤十字社に事業の引き受けを依頼し、同社が中心となって進められたのです。    

 そして1920年に福井県敦賀経由で救援第一陣の375人が東京に、そして1922年には第ニ陣として390人が大阪に無事到着しました(静養期間は3週間から3か月)。日本赤十字社の呼びかけにより寄付金や食べ物、衣類が寄せられ、それは貞明皇后(大正天皇のお后)から市井の人々と幅広く、それぞれに合わせた善意が孤児たちに寄せられました。 また日本赤十字社の看護婦や保母さんが静養生活を支え、その献身により瘦せ細っていた孤児たちはみるみる回復していきました。 

 大阪に来た孤児たちは、天王寺の大阪市立公民病院(現大阪公立大学医学部附属病院)の看護婦寄宿舎に滞在。看護婦や保母さんたちが彼らを大阪城や当時あったルナパークという遊園地へ連れて行きました。特に喜ばれたのが天王寺動物園。生まれてはじめて見る動物や、象に乗せてもらうなどそれは大はしゃぎだったそうです。

 日本での温かい対応は悲惨な経験をした孤児たちの心と身体を癒し、やがて日本政府の計らいにより無事に帰国することが叶ったのです。サイズの合った清潔な服とポケットにはたくさんのお菓子が入っていました。
 しかしその後、第二次世界大戦が勃発。ポーランドはナチスドイツに侵攻され、終戦後はまたもやソ連に支配されるなど苦難の道のりが続きます。日本に来た孤児の中には母国のために戦った人や、結婚して家庭を築いたものの戦争で夫を亡くした女性もいました。

 でも彼らは日本でのことを忘れていなかった。多くの元孤児が子孫に語り継いでいたようです。ナチスドイツへの抵抗運動で捕えられながらも生き延び1983年に61年ぶりに来日、日本赤十字社大阪支社や、滞在した宿舎あとを訪れた人もいました。

 生前の孤児から聞き取り調査を行ったポーランド国立特殊教育大学のビエスワフ・タイス教授は、「日本での記憶が孤児たちを癒やす心理療法の役割を果たしていた。“私は孤児だが日本にいた”という誇りの象徴だった」と明かした。FNNプライムオンラインの特集に記載されています。

 2002年に上皇皇后ご夫妻はポーランドに行かれた折、高齢となった元孤児とお会いになりました。元孤児たちは日本で習った童謡「うさぎとかめ」を歌ったそうです。覚えていてくれたのですね。
 一方、ポーランド政府はあの時のお礼として、少しでも癒しになればと平成に起きた阪神淡路や東北の大震災で親を亡くしたこどもたちを招待。元孤児たちとも交流し、親を亡くした同じ辛さを語りあいました。

 そして100年目の今年10月、在ポーランド日本大使館で記念のイベントが開催されました。孤児たちの子孫が出席。「日本人が手を差し伸べてくれたから、私たちが生まれてここにいる」といい、「孤児たちが100年前に日本から受けた恩を未来に伝え、同じ境遇にいるウクライナの子供たちを助ける」「それが孤児の子孫の責任だと感じている」と語るニュースが流れました。

 100年前を振り返ってみると発展したものもあれば、今回のように戦争が繰り返し行われて、今でも国を追われる人々が世界中にいます。それはウクライナだけではなく、絶えずどこかの国で争いがあり、結果こどもや高齢者など弱い立場の人々が辛い思いをする。人の世の不条理を感じます。家族が消えてしまう、居場所が無くなるというのは人間にとって耐えがたいことです。

 今年もあとわずか。ウクライナをはじめ、世界の人々や子供たちたちが祖国で安心して過ごせるようにと祈る思いです。



参考文献



■「ポーランド孤児・『桜咲く国』がつないだ768人の命」(山田邦紀著・現代書館)

■「ポーランド孤児を救え!~日本とポーランドの友好を育んだ物語を多くの人に伝えたい」(PHPオンライン衆知)
https://shuchi.php.co.jp/article/1812

■「手を差し伸べたのは日本のみ…歴史に埋もれた知られざる”ポーランド孤児”救出の軌跡」(FNNプライムオンライン)
https://www.fnn.jp/articles/-/118322

■「日本への感謝色あせず シベリア孤児救済100年」(jiji.com 2022年10月20日配信
https://www.jiji.com/jc/article?k=2022101900677&g=int

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