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理事長だより

2021.12 UPDATE

「Vol.34 着眼大局・着手小局」

 「着眼大局(ちゃくがんたいきょく)・着手小局(ちゃくしゅしょうきょく)」。事を成そうとする人は、いつも大きな目標を持ち、その目標に向かって計画を決めて実行して生きて行くことが大切である。という意味で、中国の荀子(じゅんし)(313BC〜238BC)の言葉です。

 今月の理事長だよりは、戦乱と干ばつで疲弊したアフガニスタンで、人々の生命を救うために死力を尽くされた、中村哲(てつ)医師の活動を紹介します。

 中村医師は1946年に福岡県で生まれました。子供の頃から昆虫が大好きで、将来は昆虫学者になりたいと思っていましたが、結果的には医師になりました。そして1978年31歳の時、アフガニスタンとパキスタンにまたがるヒンズークッシュ山脈に登頂する山岳隊に、医師として同行することになりました。そこには珍しい蝶が生息、昆虫好きの中村医師にとって一度は訪れたい場所だったのです。「何も初めから、『国際医療協力』などに興味があったわけではない。・・・もし昆虫に興味がなければアフガニスタンとは無縁であったろう。」と著書「天、共に在り」の中で語っています。「日本の山岳隊にお医者さんがいる」。病に苦しむ現地の人々が、噂を聞きつけて中村医師の元を訪ねて来ましたが、この時は十分な準備をしていなかったため、後ろ髪を引かれる思いで帰国せざるを得ませんでした。

 それから6年後、1984年37歳の時にパキスタンのペシャワールという街へハンセン病を治療する医師として赴任することになりました。そこは停電が頻繁に起こるような設備の整わない場所。患者は隣国アフガニスタンからの難民も多く、両国をまたがって診療所を設け、多い時には11か所を運営していたそうです。

 2000年、アフガニスタンは大干ばつに襲われました。人口の半数以上にあたる約1200万人が被災、100万人が餓死線上という想像も絶する悲惨な状況となったのです。農地が砂漠化、村が消えていく…。食糧生産が激減した事により、食べるものは無くなり、人々は喉の渇きをいやすため汚れた水を飲まざるを得ませんでした。特に小さなこどもが犠牲になり、中村医師のもとに大勢の母親が病気のこどもを抱いてやって来ました。待っている間に子供が亡くなってしまうという事も珍しくは無かったそうです。

 「もう病気治療どころではない」。いくら治療を続けても、問題の根本を改善しなければ解決しない。中村医師と村人、そして賛同して日本から来た青年たちと「水の確保」のため随所に井戸を掘り、その数は6年間で1600か所にも上りました。

 「100の診療所より1本の用水路を」。やがて井戸だけでは限界があると考えた中村医師は、用水路を築き大河のクナール川から村々に水をひき込む「緑の大地計画」を立ち上げました。この時56歳、当然ながら土木工事については知識ゼロの全くの素人です。独学で専門書を読み、設計図を作成し、自ら大きなショベルカーを動かしました。

 現地にはコンクリートどころか、まず電気がありません。ショベルとのみが主な道具です。「現地にある資材で、現地の人たちだけで維持できる方法でなければ続かない。」そう考えた中村医師は、あくまでも現地にあるもので工夫しました。そこで護岸工事は古くから日本で用いられた蛇篭(じゃかご)という工法を採り入れる事にしました。蛇篭とは鉄線で籠を編み、中に石材をいれたもので、それをブロックのように並べる工法です。これなら最新の技術はなくても石材と鉄線があればできるし、低コストで補修もしやすい。

 また、取水堰(※しゅすいぜき)は福岡県筑後川流域の山田堰(ぜき)をモデルにしました。山田堰は江戸時代に干ばつで苦しむ農民を救うために設けられ、二百年以上たった今でも田畑に水を送り続けています。自然石を斜めに積み上げる工法や、地形も似ているので現地に適していました。着工から7年、2007年に念願の用水路が完成。水の恵みは大きく、砂漠と化した土地に緑が戻り、スイカや小麦などの作物に加え、水田ができ田植えが行われるまでになりました。村を捨て難民となった人々は次々と戻って来て、土地を耕し始め、作物が採れるようになった面積は福岡市の半分ほどにもなりました。用水路工事の技術者も育ち、現地の人たちの手で維持できる道筋もついてきました。

 ところが今から2年前の2019年12月4日、作業現場に向かう途中、何者かの銃撃により、中村医師は5人のスタッフとともに敢えない最期を遂げてしまいました。享年72歳。その後、中村医師を称えて壁に描かれた肖像画が黒く塗りつぶされたという悲しい知らせも入ってきました。何故、誰が・・・闇の中です。やるせなく残念でなりません。

 中村医師の偉業は、人々を救う(大局)ため、「水」という根本的な原因をあぶり出した(着眼)こと。そして改善するために蛇篭工法など(着手)現地の人々、状況にあわせて(小局)向き合ったから事を成した。その実行力に頭が下がります。

 私は中村哲先生の生き方を映像や書籍で知り感銘を受けました。みなさんに伝えたくて、亡くなった12月に筆を執った次第です。

(追記)中村哲先生の活動を支えたのは日本のペシャワール会。日本の市井の人々から寄せられた募金がサポートしたことも付け加えておきましょう。

※取水堰:水を川から取るために、河川を横断して水位を制御する施設。

■参考図書:
「天、共に在り アフガニスタン三十年の闘い」(NHK出版)
「希望の一滴 中村哲、アフガン最期の言葉」(西日本新聞社)
「カカ・ムラド~ナカムラのおじさん」(双葉社)

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