篠ブログ №7 6.18➡1.17 ~ 記憶は繋がる、31年前へ(履正社中高編)
こんにちは、篠岡です。
今回の話は【ミニ】にするか、【ブログ】にするか、最後まで悩みました。
今日は、6月18日。
この日付けにちなみたかったので、最初は【ミニ】のつもりで書き出しました。
しかし、記憶をたどるうち、
気がつけば、分量も内容も大きく枠を超えてしまい、
結局、【篠ブログ】で発信することに…。
ということで、いつもより一歩踏み込んだ、少し重たい内容なので、心しておつきあいください。

今日から少しだけ時間を巻き戻して…
■2026.4.13 避難訓練―

本校ではこの日、地震を想定した避難訓練を行いました。
中高とも、いくつも【学年ブログ】で取り上げていましたね。
訓練の最後で、私は皆さんに阪神淡路、東日本、そして8年前の6月18日の大阪北部地震に触れました。
特に生徒たちにとって唯一のリアルタイムである大阪北部地震については、
フラッシュバックに配慮しながら言葉を選んだつもりです。
その後、中1は校外学習で、神戸の「人と未来の防災センター」にも行って震災について学びましたね。
各学年詳細は 👉 ブログ|履正社中学校・高等学校

そして、私自身の記憶も、8年前の6月18日 7:58に巻き戻ります。
■2018.6.18――あの日の揺れ…ふたたび
その日の朝、通勤途中、突然、立っていられないほどの大きな揺れが…。
その後、私は大急ぎで学校へ向かうと、すでに先生方の誘導で、早く来ていた生徒たちが避難していました。
まさに、この避難訓練と同じ校庭に…。
本校生には特に被害はありませんでしたが、この日は臨時休校とし、
各ご家庭に連絡の上、できるだけ迎えに来ていただく形で全生徒を帰宅させました。
「訓練を訓練に終わらせない」
―その意味を、この日あらためて痛感しました。

ここから先は、講話ではしなかった話……
■1995.1.17――さらに、記憶は30年前、はじまりのあの揺れへ…
私の頭はさらに巻き戻って、どうしても1月17日に行き着きます。
詳しくは語りませんが、本校教職員、生徒の多くが被災し、旧校舎も大きな被害を受けました。
その後、学校が通常運転に戻るまで、多くの月日を費やしたのです。
発生時刻5:46。私は自宅で就寝中。
尋常でない揺れに飛び起き、しばらく記憶の空白があって、その後とにかく学校へ向かったのです。
普段、車で20分の道のりが1時間以上かかりました。
到着すると、学校には数名の教職員しかおらず、電話もつながらず、当日は何もできませんでした。
そこから、生徒など関係者の安否確認に数日を要しました。
■1995.1.18――そこから先は自転車で―
復旧に膨大な時間がかかると直感した私は、
その日の夕方、機能停止した学校をあとにし、
近くのスーパーで大量の水、パン、下着類(子供~大人用)などを買い込みました。
そして翌18日、車に自転車と物資を積んで、神戸方面へと西に向かっていました。
案の定、車は夙川までしか入れず、そこから先は自転車に乗り換え、道なき道を進みます。
前かご・後かご・大型リュックに物資を精一杯満載し、
連絡がつかない家庭を、西宮から芦屋、そして神戸へと一軒ずつ順に訪ねていきました。
「まるで戦争映画の1シーンのよう…」
その道筋の光景は今でも忘れません。
例の阪神高速のバスの映像。
私は目の前でそれを見た時、恐ろしさを通り越して現実とは思えませんでした。

倒壊した家にはどれも赤や黄色の紙が貼られていました。
訪ね人たちはそれぞれ、どうにかご自宅近くの学校に避難しており、ご家族も含め全員の無事が確認できました。
焼け石に水かもしれませんが、私は少しずつ物資を置いて回りました。
■生徒たちが戻るまで数か月―
その後、学校は再開し、生徒たちも徐々に登校できるようになりました。
しかし、2月半ばになっても、私のクラスの1人がどうしても通えない状況が続きました。
そこで、PTAの力をお借りして、同級生宅に彼を約1か月ホームステイさせてもらうこととなりました。
結局、完全に学校が元通りになるまで数か月かかりました。
この時の最後の1人M君、また自宅から通えるようになってよかったね。
そして、彼を預かってくれたS君とそのご家族、本当にお世話になりました。
今ではM君もS君も立派な働き盛りのおじさんになり、二人とも元気に暮らしていると聞いています。

■2026.6.18――風化させないために~そして未来へ
今回、私はあえて教訓めいたことを書くのをやめました。
ただ、私の実体験を記すことで少しでも記憶の風化をとどめ、
そして、「いつでも起こりうる災害」―その備えにつながればと思います。

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