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理事長だより

2025.02 UPDATE

「Vol.72 もしも、あの時 — 小さな行動が紡いだ歴史の奇跡」

 2025年。昭和元年(1926年)から数えて100年目の年。私たちは日々、さまざまな出来事の中で生きています。小さな選択、ささやかな行動。その一つひとつが、未来のどこかで歴史を動かすかもしれない。そんな奇跡の可能性を、どれほどの人が意識しているでしょうか。

 「もしも、あの時、あの人が違う選択をしていたら?」

 歴史に潜む無数の「もしも」。それを紐解くことは、学びであり、そして壮大な冒険でもあります。今回は、400年以上前の日本で起きた、たった一つの勇気ある行動が、未来の国のかたちを変えた物語をお届けします。

 時は慶長5年(1600年)。日本の命運を分けた「関ヶ原の戦い」。豊臣秀吉の死後、徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍が天下統一をかけて激突しました。結果は東軍の勝利。家康は全国を治め、以後260年以上にわたり徳川の世が続いたことは、誰もが知る歴史です。

 しかし、その戦場の片隅で、一つの奇跡が生まれていました。

 西軍についた薩摩藩の島津義弘は、わずか1500人の兵を率いて参戦しましたが、西軍敗北の報が響き渡る中、絶望的な状況に立たされます。多くの大名が命惜しさに戦場を離脱する中、義弘は前代未聞の決断を下します。

 「徳川家康の本陣を突き破れ!」

 通常なら撤退を考える局面。しかし島津軍は、命をかけた「敵中突破」を敢行します。武士にとって、命よりも名誉が重かったのです。火花散る激戦の末、義弘と数十人の兵は奇跡的に生還。故郷・鹿児島まで帰り着きました。この壮絶な撤退劇は「薩摩の退(の)き口」として、今なお語り継がれています。

 しかし、この奇跡の影には、名もなき人々の無償の善意がありました。

 逃走中、疲弊しきった島津軍を助けたのは、大阪の商人・田邊屋道與(どうよ)。彼は命の危険を顧みず、義弘のために船を手配し、薩摩への帰還を支えたのです。もし、田邊屋が「徳川の時代に敗軍の将を助ければ、自分たちの命も危ない」と尻込みしていたら? 義弘は捕らえられ、薩摩藩は滅亡していたかもしれません。

 薩摩藩が消えていたらどうなったでしょう。幕末の動乱期、西郷隆盛や大久保利通が日本の近代化を牽引することはなかったかもしれません。日露戦争で日本を勝利に導いた東郷平八郎も、歴史の舞台には現れなかったでしょう。田邊屋のたった一つの行動が、何百年先の日本を支えたと考えると、歴史とはなんと奇跡に満ちているのでしょうか。

 そして、助けた田邊屋一族にも、思いがけない運命の扉が開かれます。

 彼らは当時、海外貿易で繁栄していましたが、江戸時代の鎖国政策で商売は窮地に立たされます。しかし、そのとき支えになったのが、義弘から贈られた秘伝薬の製法でした。田邊屋の孫・五兵衛はこの薬をもとに傷薬を開発。たちまち大ヒットし、10年後には天皇にも薬を献上するほどの成功を収めます。こうして田邊屋は製薬業で生き残り、やがて田辺三菱製薬として、現代ではリウマチや難病の治療薬を開発し、世界中の命を支える企業へと成長しました。

 大阪・道修町には今も、田辺三菱製薬、塩野義製薬、小野薬品工業といったグローバル企業が軒を連ね、「薬の町」として日本の医療発展を支え続けています。

 歴史とは、数えきれない小さな「善意」が糸のようにつながり、大きなうねりを生み出していくものなのかもしれません。

 もしも、あの時。

 田邊屋が義弘を見捨てていたら、今の日本はまったく違う国になっていたでしょう。私たちの日常の何気ない選択や、目の前の誰かに差し伸べた手が、何百年後の未来に驚くような奇跡を生むかもしれない。そう思うと、今日という日が少し違って見えてきませんか?

 ほんの少しの勇気、ほんの少しの思いやり。

 その一歩が、未来の誰かを救う光になるのかもしれません。

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